年号 北部九州及び中国の動向 宗像の動向 占部家の出来事
建武3年/
延元元年
1336年
3月 足利尊氏九州へ
多々良浜の合戦 菊地武敏と戦う
1日宗像氏範、足利尊氏を館に迎え入れる。尊氏、宗像郡赤間庄地頭方を宗像氏に与える。
2日多々良浜の合戦参戦
占部宗安、多々良浜の合戦に参加。城左馬助武治を討つ。安治は赤星右馬助を討つ
4月 尊氏、楠橋庄(遠賀郡)を宗像氏に与える
12月 後醍醐天皇が吉野へ(南北朝分立)
建武4年/
延元2年
1337年
12月 宗安、多々良浜の功により将軍より筑前吉川庄三百町を加恩される。計千百町を領有する
貞和5年/
正平4年
1349年
足利直冬九州下向
小弐頼尚、直冬について九州探題一色氏と対立
貞和6年/
正平5年
1350年
2月 宗安、肥前晴気で戦死
嫡子安治もともに戦って功あり
観応元年/
正平5年
1350年
9月 宗像氏正、九州探題一色氏より肥前国晴気保内小地頭職を与えられる。
11月 宗像氏正に宗像別府五ヶ郷を宛行われる
観応2年/
正平6年
1351年
足利尊氏、大友氏泰に小弐頼尚の所領遠賀・宗像西郷・豊前国黒田庄を宛行する 宗像氏正・氏俊、鎮西探題足利直冬・少弐頼尚の勢と戦う
11月 探題一色氏曲村地頭職を宗像社に寄進する
文和元年/
正平7年
1352年
10月 足利直冬長門国へ
11月 足利義詮、山口・朝町・稲本・須恵・土穴・肥前国尾崎保小地頭職を宗像氏正に宛行う。宗像氏俊(氏正弟)久原村・大穂村・河崎村を宛行われる
文和2年/
正平8年
1353年
3月 足利義詮、氏俊に鞍手郡芹田、稲光村を宛行う
文和4年/
正平10年
1355年
一色道猷・直氏親子、長門国に退く 宗像氏、南朝方へ下る
11月 宗像氏正、氏俊に社務職を譲る
延文4年/
正平14年
1359年
小弐頼尚、北朝に復帰し筑前国守護となる
7月 菊地肥前守武光来襲。安治、多々良浜にて戦う
宗治弟、宗次(千葉三郎)戦死
8月 大保原合戦(筑後川の戦い) 宗像氏俊、北朝方につき小弐頼尚とともに大保原合戦に参戦。懐良親王勢と戦う 菊地と戦い、安治(親安)、豊後に出奔
安治嫡子実安(太郎)、次郎、三郎戦死
延文5年/
正平15年
1360年
2月 宗像氏俊、宗像庄内山口上下村地頭職を回復
康安元年/
正平16年
1361年
8月 小弐冬資、豊前国中津郡大豆俵村を宗像社に寄進
貞治元年/
正平17年
1362年
9月 宗像氏俊、少弐冬資・九州探題斯波氏経とともに長者原で菊池武光と戦い敗れる
貞治3年/
正平19年
1364年
2月 宗像氏俊、弟氏名に社務職を譲る
氏名は南朝に属する
貞治4年/
正平20年
1365年
10月 足利義詮、宗像氏俊を壱岐島守護職に補任
楠橋庄のかわりに神崎庄を与えられる
貞治5年/
正平21年
1366年
3月 足利義詮が宗像社領などを安堵する
応安4年/
建徳2年
1371年
7月 宗像氏名と兄氏俊対立。氏俊の子、氏頼社務職を引継ぐ
12月 今川了俊(貞世)九州探題職として下向 宗像氏、今川了俊に従う
応安6年/
文中2年
1373年
4月 今川了俊、大内義弘、菊地武政追討す
宗像氏重、少弐冬資等とともに今川・大内氏を助ける 安治(親安)今川・大内氏に従い筑前小田原で戦い、合志左近将監を討つ
安治子忠安、父と共に戦って軍功あり
      宗像氏、曲村地頭職への押妨、平等寺村下地違乱、別符の押妨について少弐冬資と対立        
永和元年/
文中4年
1375年
3月 宗像氏俊、幕府より宗像社仮殿造営を命じられる
/天授元年
1375年
8月 今川了俊小弐冬資を殺害。筑前国守護を兼任する
永和2年/
天授2年
1376年
占部忠安嫡子弘安誕生
弘和3年/
永徳3年
(1383年)
懐良親王卒す
嘉慶元年/
元中4年
1387年
小弐貞頼、筑前国守護となる
明徳2年/
元中8年
1391年
 4月   宗像氏頼病にて、弟氏重社務職・社領・武領を譲り受け本家相続する         
明徳3年/
元中9年
1392年
正月   将軍義満より、所領安堵の下文あり        
4月 宗像氏重、幕府より宗像社造営を命じられる

10月
南北朝の合一 氏経、父氏重より、社務職・神領本領当知行分を譲られる
応永2年
1395年

7月
今川了俊、九州探題を解任される
応永3年
1396年
  渋川満頼、九州探題となる
肥前守護兼任
         
4月   宗像氏重38歳にて死去。氏重弟氏忠、甥氏経幼少の為に補佐する        
応永4年
1397年
 6月 大内義弘、河津種光の筑前・豊前両国の代官職を承認する           
応永5年
1398年
菊池氏・少弐氏など蜂起する。大内義弘、討伐の命を受け九州に下向する。 占部安延(初名は識安)誕生
  4月   筑前守護少弐貞頼、稲本村引田坪二町小を宗像社領と認め社家に渡すよう守護代に命ず      
7月 大内義弘、恵通寺の戦功によりより糟屋郡米多比・薦野・薬王寺、宗像郡西郷を預け置く
  8月   少弐忠資、宗像氏経の居城白山城を攻める。氏経は肥後より帰国、大内盛見の後援を受けこれを退ける      
11月 宗像氏経、筑前八田・恵通寺の合戦に対し足利義満より感状を受ける
応永6年
1399年
6月   氏経後見人氏忠、不忠の志あり。家臣評議により追討されそうになり陳謝、誓約する。氏経是を許し、社務職を譲る。      
12月 足利義満、大内義弘を追討す(応永の乱) 宗像氏経、大内義弘謀反の時、九州の義弘の残党を退治する。 忠安嫡子弘安、大内義弘に従い泉州堺で戦死す
弟忠宗(沼口次郎)共に戦死
弟貞安、家領相続
応永7年
1400年
10月 足利義満、宗像氏経に宗像郷内宮永・牟流木・石田を料所として預ける
  11月   筑前守護少弐貞頼、宗像氏経に稲本村を預ける      
  12月   宗像氏忠、氏経に誓文状を送る(忠節を誓う)      
応永9年
1402年
10月 三宝院満済、宗像氏経に若宮庄の代官職を補任する
応永10年
1403年
氏重弟氏忠、大宮司職につく。氏経は大内盛見を頼り、中国へ。半年後、氏忠子氏勝が大宮司を引き継ぐ。
応永11年
1404年
勘合貿易始まる
8月 足利義満、宗像氏経に大宮司職を安堵する
応永12年
1405年
    宗像氏経、中国より帰還し復職      
12月 渋川満頼・大内盛見、菊池武朝・少弐満貞が戦う(猪嶽合戦) 宗像氏経、大内盛見に従い少弐満貞と戦う。
米多比・薦野・薬王寺の三氏、宗像氏に属する
大穂利種親子、宗像氏に属す
     
応永13年
1406年
正月   豊前国猪嶽合戦での忠節を大内盛見から将軍足利義満に注進される      
4月   武藤宗治、筑前国赤間院内須恵・三郎丸田畠屋敷を宗像氏経に譲る
若宮庄江原経種等、氏経に忠節を誓約する
     
応永17年
1410年
  宗像氏顕(後、氏信)大宮司になる       
応永19年
1412年
4月 宗像氏経、朝鮮と通交
応永21年
1414年
6月 前大宮司宗像氏経、京にて三宝院満済と対面
応永22年
1415年
安延嫡子盛延誕生
  4月   宗像氏顕、朝鮮国に使いを送り梵鐘を求める      
  11月   宗像氏顕、朝鮮と通交      
  12月   九州探題渋川満頼、宗像社領の段銭を免除      
応永24年
1417年
安延次男弘尚誕生
応永25年
1418年
正月   宗像氏顕、朝鮮と通交      
応永26年
1419年
6月 対馬に朝鮮の兵来襲
応永28年
1421年
4月 宗像氏俊(前述氏俊と別人)6歳で叔父氏顕(氏信)から大宮司職を譲られる。
応永31年
1424年
8月 将軍足利義量、大内盛見に三宝院家領筑前国若宮庄を取り沙汰させる 宗像氏と若宮庄との関係が切れる
  11月   宗像氏経、朝鮮と通交      
応永32年
1425年
6月 宗像氏顕(氏信と改める)大宮司職に戻る
永享2年
1430年
不明 筑前秋月春種・原田信朝挙兵。豊前香春岳城・門司城攻略、長門に攻め入る
大内氏これを掃討する 
       
永享3年
1431年
6月 大内盛見、筑前深江にて少弐満貞・大友持直と戦って敗死す
  8月   宗像氏忠の子氏継が大宮司職につく(2年8月とも)      
11月 大内持世九州渡海、少弐氏・大友氏と戦う
永享4年
1432年
大内持世、大内持盛・満世と兄弟で争う
持世の筑前攻略中断
永享5年
1433年
盛延嫡子弘安誕生
  4月 大内持世、豊前で弟持盛を討つ。  宗像氏俊再び大宮司となる
(4年8月とも)
     
  8月 大内持世、太宰府を攻め、少弐満貞・嫡子資嗣を討つ。        
永享6年
1434年
九州探題渋川満直、肥前神埼で敗死。子の教直が探題職を継ぐ。 安延子月澤和尚誕生
永享8年
1436年
8月 占部盛延防州山口にて害にあう 22歳
永享12年
1440年
宗像氏俊、奴山の縫殿宮に梵鐘を寄進する
占部祐安誕生
母は、宗像大宮司氏澄の娘
嘉吉元年
1441年
6月 赤松満祐、足利義教を殺害(嘉吉の乱)
大内持世、乱に巻き込まれる
宗像氏俊、赤松氏追討の軍に加わり播磨国に出陣する
7月 大内持世死去 盛延弟弘尚、大内持世とともに戦死 25歳
12月 大内教弘、太宰小弐嘉頼の有智山城を攻める 占部識安(安延)、大内教弘に従い有智山城を攻めて功あり
文安元年
1444年
6月   宗像氏弘、大宮司になる      
文安3年
1446年
5月   宗像氏弘死去
弟氏正(始興聖寺の僧)大宮司となる 16歳
     
享徳3年
1454年
11月 宗像氏正、朝鮮国王瑞宗に書を送り通交を求める
康正1年
1455年
7月 宗像氏正、朝鮮と通交。朝鮮への歳遣船を一年一艘とする
長禄2年
1458年
2月 宗像氏正、朝鮮と通交
  6月   宗像氏正死去
氏正の名で朝鮮と通交
宗像氏郷大宮司となる
     
寛正元年
1460年
9月 安延、剃髪して宗快という。
清安(岩松三郎)父の家禄を受ける
寛正2年
1461年
盛延子弘安、伯父清安より家禄を受ける
寛正3年
1462年
6月    宗像氏郷、朝鮮と通交      
寛正5年
1464年
7月   宗像氏郷、朝鮮と通交      
寛正6年
1465年
6月 大内政弘、河津弘業を西郷の内十町地の代官とする        
  8月   宗像氏郷、朝鮮と通交      
文正元年/
1466年
3月   宗像氏郷、朝鮮と通交      
  10月   宗像氏郷、朝鮮と通交      
応仁元年
1467年
5月 応仁の乱 少弐教頼東軍細川方に属し筑前攻め大内政弘の兵と戦う 
8月 河津弘業、大内政弘に従い上京 弘安、大内政弘に従い摂州にて戦死 35歳
伯父祐安、大いに軍功をたてる
祐安、家督相続
応仁2年
1468年
少弐教頼戦死
文明元年
1469年
正月 少弐教頼の子政尚(政資)対馬の兵船数百隻で筑前より太宰府入り(政尚=頼忠=政資)
大友親繁、豊前・肥前・筑前攻め
5月 大友親繁・少弐頼忠(政資)東軍細川方につき大内氏と戦う
仁保加賀守弘直、宗像郡西郷に出陣。大内新蔵人教祐戦死
占部祐安は矢傷を受けたが最後に仁保弘直の軍を破る。
少弐氏の有智山城を攻めて功有り
7月 大内氏方の筑前・豊前国領主達、山口へ敗走 宗像氏郷子氏定、大内政弘に属し山口へ、居住する
文明2年
1470年
2月 大内教幸、大友・細川方にに通じる。家督をめぐり大内政弘に対し謀反
3月 安延、上八村に承福寺を建て、亡き子盛延・弘尚などの追福をす。安延子月澤和尚、承福寺開山となる
4月 宗像氏郷、朝鮮と通交
  9月   宗像氏郷、朝鮮と通交。朝鮮国王成宗、宗像氏郷ら25名の歳遺船は一年一艘と定める      
文明3年
1471年
占部豊安生まれる
  2月   宗像氏郷、朝鮮と通交    
12月 大内教幸、陶弘護と戦い敗北して自害。陶弘護、筑前より少弐頼忠(政資)を大宰府に攻める 宗像氏、陶氏に属し大内教幸・少弐氏と戦う
文明5年
1473年
5月 宗像氏郷、朝鮮と通交
文明6年
1474年
5月 宗像氏郷、朝鮮と通交
文明7年
1475年
10月   宗像氏郷、朝鮮と通交    
文明8年
1476年
11月   宗像氏郷、朝鮮と通交    
文明9年
1477年
6月 大友政親、豊後・筑後領国守護となる
  12月   宗像氏郷、朝鮮と通交    
文明10年
1478年
正月   宗像氏郷死去     
  2月   宗像氏国、大宮司となる    
6月 占部安延没す。81歳
  7月   氏郷名義で、朝鮮と通交      
9月 大内政弘、豊前進攻。少弐政資を破り豊前・筑前平定 大内氏九州奪回へ 宗像氏定、大内政弘の九州遠征により、山口から帰還、大宮司となる
文明11年
1479年
7月   宗像氏郷名義で、朝鮮と通交      
文明12年
1480年
9月   宗像氏郷名義で、朝鮮と通交      
文明13年
1481年
11月   宗像氏郷名義で、朝鮮と通交      
文明14年
1482年
8月   宗像氏郷名義で、朝鮮と通交      
文明16年
1484年
3月   宗像氏郷名義で、朝鮮と通交      
文明17年
1485年
12月   宗像氏郷名義で、朝鮮と通交      
文明18年
1486年
11月   宗像氏郷名義で、朝鮮と通交      
長享元年
1487年
3月 宗像氏定死去。嫡男鶴千代(興氏)、宗像社辺津宮第二宮の遷宮を行う
  11月   宗像興氏、大宮司となる      
長享2年
1488年
2月   宗像氏郷名義で、朝鮮と通交      
延徳元年
1489年 
2月   宗像氏郷名義で、朝鮮と通交      
  12月   宗像氏郷名義で、朝鮮と通交      
明応元年
1492年
3月 宗像氏郷名義で、朝鮮と通交
  5月 少弐政資、大内政弘の軍と筑前筥崎浜で戦う        
明応2年
1493年
    宗像興氏、将軍義植公防州下向の折、山口に在勤「訂正宗像大宮司系譜」明応8年?      
4月   宗像氏郷名義で、朝鮮と通交      
7月 承福寺の月澤和尚没 60歳
明応3年
1494年
正月 少弐政資蜂起、対馬より渡海して筑前に進攻する 宗像興氏、大内氏に告げ、内山城の少弐政資を攻める       
  3月   宗像氏郷名義で、朝鮮と通交。大内義興の少弐氏討伐の折、興氏は長州赤間関で少弐家臣麻生与次郎元貞を討つ「訂正宗像大宮司系譜」明応5・6年の間違いか?      
明応4年
1495年
9月 周防・長門・豊前・筑前守護大内政弘没
明応5年
1496年
5月 父大友政親、跡継ぎ豊後守護大友義右(母は大内氏)の死をめぐり、大内義興に追討される
大友政親弟親治(ちかはる)当主となる
  11月 大友・少弐勢、立花・麻生を先鋒として河津氏の高鳥居城・飯盛山城を攻める 豊安、杉民部他と数百の兵を率いて、飯盛山の河津氏を助ける
(河津伝記)
   
12月 少弐政資、肥前・筑前進攻。原田興種の高祖城を囲む 興種、大内義興の助けを請う
      72代大宮司宗像氏佐、田島の医王院を開基(明応6年?)      
明応6年
1497年
    宗像興氏、氏国(氏佐)に大宮司職を譲る      
正月 大内義興の軍2万、大宰府に少弐政資を攻める 豊安、大内氏への軍忠甚だし
4月 大内義興の軍、少弐政資・高経を追い詰める
少弐政資・高経、肥前にて自害
  6月   宗像興氏、六岳宮(六岳神社)の神殿再興      
明応7年
1498年
大友親治、豊前宇佐郡代佐田泰景を攻撃
8月 大内の将、陶興房、杉重清等が豊後を攻んと、豊後境に至る。豊後大友勢と佐田城にて戦う 占部祐安・豊安、大内義興に従い豊州佐田城を取って大いに功有り
12月 立花城主麻生與次郎・與三郎の軍を西郷にて迎え撃つ。宗像氏佐、立花に組し、芦間ヶ谷、岩ヶ崎にて興氏と戦う。興氏大島に渡る。 興氏方、占部大膳進頼安・占部平三郎重安郎党負傷の記録アリ
明応8年
1499年
8月 大内義興、杉弘国に豊前大友氏属城を撃たせる
  10月   宗像氏郷名義で、朝鮮と通交      
11月 豊前宇佐郡代佐田泰景、妙見城にてしばしば大友軍と戦う 妙見城落城
宗像興氏、(氏国)氏佐と争う。(氏国)氏佐、豊後に出奔 占部豊安、宗像興氏を助け片脇城を囲む
明応9年
1500年
  宗像興氏、73代大宮司となる      
文亀元年
1501年
正月 大内義興の兵、豊前で大友軍と戦い妙見城を回復
閏6月 大友親治・少弐資元の兵、豊前馬ヶ嶽城を攻る
大友義長、豊後・筑後・豊前の守護を安堵される 宗像興氏辞職
文亀2年
1502年
  氏佐、74代大宮司に還補
宗像氏郷名義で、朝鮮と通交
使者2名死亡する
     
文亀3年
1503年
4月   宗像氏郷名義で、朝鮮と通交      
9月 占部尚安、鞍手郡古賀城に生まれる
文亀4年/
永正元年
1504年
4月 宗像氏郷名義で、朝鮮と通交
  11月 大内義興、河津興光に父弘業の所帯と福万庄大森社神領・社務職を安堵する 宗像興氏、75代大宮司に還補 占部祐安剃髪 宗月  
永正2年
1505年
    宗像民部少輔氏続、大宮司補任    
永正3年
1506年
    宗像正氏7歳で社務職に補任    
永正5年
1508年
正月 大内義興、前将軍足利義尹を打ち立てて上洛。洛陽で将軍足利義澄と対立する 興氏、大内氏上洛に従い正氏に社務職・所領を譲る 占部豊安、軍功あり
永正8年
1511年
8月 大内義興、細川政資を船岡山に討伐 宗像興氏、山城国船岡山で死去 占部豊安軍功あり、弟孫三郎盛祐・家臣弘中五郎命を落とす
  11月 大内義興、河津興光に鞍手郡吉川庄三十町を与える      
永正14年
1517年
5月 占部祐安没 78歳
永正15年
1518年
5月 大内義興、宗像正氏に家督安堵する
8月 大友親治の嫡子義長没
義長の子親安(義鑑)相続
大内義興、管領代を辞して山口に帰還
永正17年
1520年
2月 大友親安、弟重治(義武)をして菊池武包の跡を継がせる
6月 占部尚安元服して豊治という
大永2年
1522年
4月    宗像正氏、温科弥四郎に光岡村嶺給の内三町と屋敷を預ける     
大永4年
1524年
5月   宗像正氏、大内義興の命により安芸国の大野城を攻める    
大永5年
1525年
大内義興、尼子経久を攻める 大友氏援軍を出す
3月 筑前秋月種時、大内氏に応じて大友義鑑と戦う
10月 宗像氏続、行方をくらます 占部豊安、宗像氏続の館を囲む
大永7年
1527年
正月 占部尚安嫡子春王丸(尚持)生まれる
  8月 大内義興、河津長祐の家督を安堵し、福万庄代官とする    
大内義興、宗像氏続を正氏の猶子とし社家分を相続させる。 宗像正氏、山口居住。宗像氏続、大宮司となる
享禄元年
1528年
7月 大内義興、尼子経久と戦う 発病して山口に帰る
12月 大内義興没 子義隆相続 宗像正氏、周防黒川郷を与えられて黒川隆尚と名乗る
享禄2年
1529年
10月 占部豊安、許斐城を再建
享禄3年
1530年
4月 大内義隆、筑前守護代杉興運に少弐資元を攻めさせる 資元親子勢福寺城に拠って防ぐ
8月 大内の将杉興運、少弐氏の将龍造寺胤久と肥前にて戦い、大宰府に敗走す
天文元年
1532年
3月 大内の将温科盛長、立花親貞を立花城に攻めて破る  黒川隆尚、大内勢に加わり立花城の大友勢を攻める
4月 大内義隆、黒川隆尚の立花合戦軍功を賞す
8月 大友義鑑、大内義隆と戦う為少弐氏の将龍造寺家兼等を誘う 黒川隆尚、大友義鑑・竜造寺隆信勢と戦う
黒川隆尚、大宮司再任
9月 宗像新四郎氏延が許斐岳を襲う 大友方宗像氏延、河津隆業の宅所を攻めて敗死
占部豊安・豊治、宗像氏延を退ける。続いて立花城を攻めて功有り
11月 大内の将陶興房、二万三千余の大軍を率いて九州へ出陣 豊前南部で大友氏と戦う
天文2年
1533年
3月 占部豊治、黒川隆尚の一字を受けて右馬助尚安を名乗る
  8月 大内義隆、河津隆業を糟屋郡上府・下府の代官とする    
  9月 大内義隆勢、肥前国筑紫正広を攻める  宗像氏、河津氏とともに大内勢に従う   
10月 大内の将陶興房、筑前武蔵城を落す。城主筑紫惟門、大内氏に降る
天文3年
1534年
4月 大内の将陶興房・杉重信の三千余の軍勢場ヶ原で豊後勢と戦う。
7月 大内軍、龍造寺氏と肥前で戦い敗走
9月 大内の将杉重信、大友氏の被官を筑後に攻めて斬る
10月 大内義隆、少弐資元と講和
12月 足利義晴、大友義鑑と大内義隆を和睦させる
天文4年
1535年
10月 大内義隆、陶興房に少弐資元・冬尚親子を追わせる
天文5年
1536年
5月 大内義隆太宰大弐に任じられる 黒川隆尚、宗像氏続の子氏男を嫡子とし、大宮司職を譲る
9月 少弐資元、陶興房に攻められ自刃 氏続と隆尚が争う。
      黒川隆尚、山口に出向  
天文6年
1537年
尼子詮久(あきひさ)家督を継ぐ
尼子氏、石見銀山を大内氏より奪う
天文7年
1538年
3月 大内氏、大友氏と和睦して筑前の地数箇所を大友氏に還付
  12月     占部尚安、上八村内座主分を宛行われる
天文9年
1540年
3月 占部尚安、嫡子春王丸(尚持)と立花城を攻める
天文10年
1541年
尼子氏、毛利氏を吉田郡山城に攻める
毛利氏、大内氏に助けられて尼子氏に勝つ
厳島神主友田興藤、大内氏に背き、黒川隆尚が大内軍を率いて厳島を占拠する
11月 尼子経久没
天文11年
1542年
1月 大内・毛利軍出雲へ進撃 尼子氏を攻める 
閏3月 大友義鑑・義鎮、筑前平定の為「鞍手攻め」にかかる
鷹取城(直方市)落城。城主毛利鎮実は大友氏に降る
春王丸元服弥六郎尚持という
占部尚安、富田城の尼子攻めに加わる
  4月 龍徳・龍ヶ嶽城の大内の将杉連並、大友氏に降る 若宮の諸城豊後勢に攻められて陥落す
宗像家臣吉田掃部守他、宮永城に籠城、戦死す。
若宮の岡田城(城代占部十郎)大友軍に攻められ落城
天文12年
1543年
正月   黒川隆尚、大内義隆に従い出雲国尼子氏攻めに加わる   
5月 大内氏尼子攻めより撤退
天文13年
1544年
正月    黒川隆尚、従五位下となる  
天文14年
1545年
鍋寿丸(宗像氏貞)生まれる
11月 占部豊安没  75歳
天文15年
1546年
正月 遠賀郡岡城麻生隆守、大友の瓜生貞延に攻められ自殺 占部尚安、家領67町を賜る。
天文16年
1547年
正月 占部尚持嫡子宮若丸誕生
  4月   黒川隆尚、大内義隆の命により、宗像氏続の子氏男に社役・武役を譲る。  
閏7月 黒川隆尚(宗像正氏)没 氏男家督相続
天文18年
1549年
5月 大友義鑑次男晴英、大内義隆の養子となる
  7月  大内義隆、米多比家兼に野坂・赤間庄の代官職を与える    
8月 黒川隆尚の子鍋寿丸と氏男が割分地をめぐって争う
天文19年
1550年
2月 大友二階崩れの変
天文20年
1551年
4月   大内義隆、宗像宗繁を宗像三所神社の大宮司とする   
8月 宗像氏男、大宮司辞職。山口に赴き、黒川隆尚の遺領黒川郷を賜り黒川隆像となる
9月 陶晴賢謀反 大内義隆自害 黒川隆像殉死
黒川鍋寿丸宗像強行入部
天文21年
1552年
3月   山田騒動
宗像氏男室と娘、殺害される
 
9月 大友晴英、山口に入り大内家を継ぐ
大内義長と名乗る
大内晴英、黒川鍋寿丸に宗像姓を称させる
      宗像鍋寿丸、遠賀郡岡城主瓜生貞延をくだし、遠賀千町を領す  
天文22年
1553年
1月 大友義鎮、少弐氏に代わり肥前守護となる
3月 陶晴賢、宗像氏続親子の殺害を命ず 宗像氏続子、千代松が鞍手郡沼口で討たれる
4月 鍋寿丸、大内義長の軍に属して高祖城の原田隆種を攻める
  8月   宗像御代寺社武家知行帳成立  
  12月   土橋氏康、陶晴賢の指示により彦山で宗像氏続を討つ  
天文23年
1554年
4月 大内義隆の姉婿、石見国三本松城主吉見正頼が陶晴賢に対し兵を挙げる 宗像鍋寿丸、吉田・占部・石松を大将として、三本松城に三百騎送る
陶晴賢、宗像鍋寿丸に吉田重致の吉田一家相続を命ず
 
天文24年
1555年
2月 占部尚安、占部大膳進賢安の申し入れを受け領内田代に名子3名を置く
4月 占部弥六郎尚持、右馬助に改める
7月 占部尚持、多賀美作守隆忠の許斐岳城に夜襲をかけて落とす
9月 占部尚安、古賀城から許斐岳に移る
占部尚安、甲斐守となる
改元
弘治元年
10月 毛利元就、厳島で陶晴賢を討つ 宗像勢、陶晴賢勢に加わる 占部尚安・尚持、芸州に行き毛利元就に意を通す。厳島の西鼓ヶ浦で功有り
弘治2年
1556年
1月 占部尚安、宗像氏貞より采地を賜う
6月 豊前佐田弾正筑前千手・馬見で秋月文種と戦う 鞍手郡吉川庄山王山・若宮表沼口河原で、河津民部少輔、杉越中守と争う 占部尚安、河津民部少輔と占部幸安の仲裁をする
9月 尼子晴久(詮久)、毛利氏より石見銀山奪回
11月 大内義長、宗像鍋寿丸の野坂庄40町の知行を認める
宗像勢、鞍手郡の八尋・室木で戦う
占部尚安・尚持、杉豊後守連緒の兵を若宮庄室木で討つ。杉の腹心河内山六郎を討つ
  12月   宗像鍋寿丸、漁場をめぐる津屋崎浦と今具閑・勝浦浜の争いを裁定する  
弘治3年
1557年
4月 大内義長、毛利元就に攻められ長府にて自刃 宗像社辺津宮第一宮焼失
宗像氏、毛利氏に通じ大友氏の麻生鑑益をせめ滅ぼす
(歴代鎮西志による)
  6月   宗像鍋寿丸、大友義鎮より秋月文種攻めの命を受ける  
7月 秋月文種、大友氏に反して筑前古処山下で戦うも反臣に殺される 宗像勢、多賀隆忠と本木郷畦町河原で戦う 占部尚持、許斐城奪回に来た多賀隆忠を畝町河原で討つ
占部尚安、越前守となる
9月 占部尚安、元の甲斐守に戻る
毛利勢に属して豊前出向 戦功甚だし
鍋寿丸元服、宗像氏貞となる
弘治4年
1558年
正月 宗像勢、村山田郷古賀原で立花勢と戦う 占部尚安・尚持、立花勢を村山田郷古賀原で討つ
弘治4年/永禄元年
改元(2月)
3月 占部尚持、杉豊後守連緒の兵を赤間にて討つ
  6月 毛利軍、奴留湯主水の門司城を攻め取る    
  10月   宗像氏貞、実相院益心に西郷永上山領三町を与える  
11月 宗像勢、鞍手郡生見村で杉連緒と戦う 占部尚持、杉豊後守連緒の兵を若宮庄生見村にて討つ
永禄2年
1559年
2月 大友氏に叛く兵2千博多を襲って焼く
  4月 筑紫惟門、筑前国御笠郡待島で大友勢と戦う    
6月 大友義鎮、豊前・筑前国守護になる 宗像氏貞、吉田重致に西郷で五町を与える
  7月   宗像氏貞、増福庵に山田村の二町を寄進する  
9月 立花鑑載・奴留湯・鎮氏等大友幕下来襲。白山・許斐城を囲む
豊後大友勢、門司城を攻める
宗像氏貞、吉田重致に一町九段を与える
宗像氏貞、城を抜けて大島へ渡る
占部尚持、手野郷糟薗名を領す
尚安・尚持、城を抜けて大島へ渡る
10月 大友軍と毛利軍、門司城をめぐり戦闘
11月 幕府、大友義鎮を九州探題・大内家家督に任命 氏貞、米多比益兼に赤間庄などで九町四反小を宛行う
永禄3年
1560年
正月 占部尚安、勝嶋に要害を普請。草崎城築城
3月 宗像氏貞、許斐城を奪回
氏貞、竹井重居に遠賀庄天野(手野)郷内で知行を宛行う
野生源三に大穂村の五町を与える
占部尚持、許斐岳城を奪回
4月 宗像氏貞、吉田秀時に山田郷に知行を与える
氏貞、瓜生益定に遠賀庄山田郷代官職を預ける
占部尚安、許斐岳に帰城
大友勢と許斐岳にて戦う
6月 宗像氏貞、嶺氏慮に知行を与える
氏貞、吉田貞辰に遠賀庄内の知行を与える
占部尚持、鞍手郡沼口村を拝領
7月 占部尚持、毛利元就に謁見
8月 奴留湯融泉、高橋鑑種、戸次鑑連、臼杵鑑速、吉弘鑑理以下大友幕下数万来襲 宗像勢、立花勢と赤間表・長者原で戦う。氏貞、白山に籠城。大友勢を迎え撃つ 尚安は許斐城、尚持は吉原里城を守って大友勢と戦う。尚持嫡子宮若丸初陣奴留湯主人の軍と戦い勇名を顕す。氏貞より感状を賜う
占部尚持伏兵に斬られて戦死
  11月   宗像氏貞、白石網底をめぐる今久賀・勝浦浜と津屋崎浦の争いを裁定する    
      氏貞、岳山城(蔦ヶ岳城)築城    
永禄4年
1561年
3月   宗像氏貞、孔大寺権現に内浦郷三十町を寄進する    
  4月     宗像氏貞、尚持に地頭所鞍手郡沼口村の内一方を配当しようとするが尚安、辞退する。占部賢安・吉田重致の説得により、許諾する  
  5月   宗像氏貞、小桶宗頼に所領を与える    
6月 大友義鎮、田原親賢・戸次鑑連等に香春岳城の原田義種を攻めさせる。香春城落城 宗像氏貞、宗像社に河東郷など100町をを寄進する
  8月     占部尚安、尚持追悼の為に建興院を建てる  
11月 大友・毛利軍、門司城を中心に豊前で戦う
永禄5年
1562年
宗像氏貞、城山に城を築き、岳山と名付ける
  4月   宗像氏貞、小桶宗頼に西郷一町九段を与える    
永禄7年
1564年
7月 毛利氏・大友氏の講和 毛利元就、宗像氏貞家臣に和平に従うよう書状を送る
11月 宗像社辺津宮第一宮の仮殿遷座
12月 明より帰国中の貿易船が津屋崎に漂着
聖護院道増、宗像氏貞に返還を求める
永禄8年
1565年
5月 大友の将立花鑑載謀反を起す
12月 宮若丸元服。八郎貞保と号す。氏貞加冠
永禄9年
1566年
正月 占部尚安、家領を孫貞保に譲る
宝満山城主高橋三河守鑑種、毛利に内通す 宗像氏貞、田島の氏八幡社を建立する(筑前国続風土記拾遺)
鞍手郡室木村第二宮を造営
貞保、高橋鑑種の志を芸州に伝える
8月 元就不在の為留守居役6人が連署して貞保に使札を遣わす
9月 占部尚安、神湊に隣船庵を建てる
立花鑑載・奴留湯融泉と飯盛山下で戦って功有り
  12月   宗像氏貞、大島宗像社中津宮を造営(筑前国続風土記拾遺) 占部尚安、上八村郷の知行は二町三段半とされる  
永禄10年
1567年
6月 高橋鑑種、大友氏に叛す。秋月・原田・筑紫・宗像・龍造寺及び太宰府天満宮神官これに同調す 宗像氏貞、中納言任官を朝廷に求める
7月 麻生鎮里豊州方につき同姓摂津守隆実と戦う 宗像氏貞、麻生隆実を助け麻生鎮里の遠賀郡上津役要害を攻める 貞保、麻生隆実を助けて上津役の要害を切崩して敵を大いに討つ。氏貞感状と褒美を賜う
9月 大友・秋月筑前休松で戦う 宗像勢が立花・怒留湯勢と飯盛山下で戦う 貞保、立花城下に軍を出し、立花・奴留湯の兵を討つ
  10月   大友勢、宗像郡に侵入し宗像勢と戦う。鎮国寺炎上    
  11月   氏貞、小桶宗頼の冠村での戦功を賞す    
貞保、承福寺と寺家山・伊王丸山の境を争う
永禄11年
1568年
5月 河津隆家を除く河津氏一族と井原氏、氏貞に属す 占部越後守賢安等の計らいで承福寺瑞林和尚と和解す
7月 大友三将(戸次・臼杵・吉弘)立花城に立花鑑載を攻めて討つ 立花鑑載自害
永禄12年
1569年
3月 毛利軍4万余門司城奪取。小倉へ陣を張る
大友宗麟、五条氏らに宗像表への出陣を要請する
毛利元就趣旨を書にして貞保に示す
4月 吉川元春・小早川隆景博多津より、筑前進撃
立花城の攻防始まる
5月大友方立花城が毛利勢の攻撃により開城する。大友・毛利軍筑前多々良浜で合戦。毛利軍敗れる宗像勢、毛利氏とともに大友勢と立花城下で戦う貞保、豊後兵堤九郎次郎を長尾原で討つ
  9月   宗像勢、芸州警固衆とともに、大友勢と新宮湊で戦う    
10月 大内輝弘豊後より山口へ
毛利軍筑前より撤退
氏貞、飯盛の陣を引上げ岳山に籠城する
宗像家臣家族、郷民数千人が大島と地島に難を逃れる
貞保、豊後兵を吉原里城構口にて撃つ
11月 立花城に籠城した毛利勢、城を開城し、中国へ戻る
高橋鑑種、大友宗麟に降り、小倉へ移送される
氏貞、立花表より帰陣。大友氏と和睦
  12月   宗像氏貞から毛利氏への人質吉田貞棟宗像へ戻る(吉田氏系伝)    
      河津隆家、「隠士」となり、嫡子万千代丸は氏貞に属す    
永禄13年
(元亀元年)
1570年
正月 氏貞、河津隆家を殺害する
元亀元年
1570年
8月 鍋島直茂、大友八郎親貞を討つ
高橋鎮種、宝満・岩屋城督となる 臼杵鑑速の娘、宗像氏貞に嫁す
元亀2年
1571年
正月 戸次鑑連(立花道雪)、立花城督として入城
6月 毛利元就没す
  7月   宗像氏貞、父正氏の25年忌をいとなむ     
氏貞妹、お色姫立花道雪に嫁ぐ。西郷を道雪に譲り、家臣を若宮に移す
元亀3年
1572年
2月 占部尚安没 70歳
  6月   宗像氏助名義の船、朝鮮国へ      
天正元年
1573年
足利義昭、織田信長に降伏。室町幕府滅亡
  5月   宗像氏助名義の船、朝鮮国へ      
  9月   宗像氏貞、久原の六御前社を造営する      
天正2年
1574年
正月   宗像小路屋敷帳作成      
3月 宗像氏貞、宗像社辺津宮第三宮に本地薬師如来像を安置する
宗像郡知守名義の船、朝鮮国へ
天正3年
1575年
3月   宗像社辺津宮第一宮本殿造営。御神殿土壇の土執り      
  5月   蛮船、宗像郡江口の浜に漂着
(宗像軍記)
     
11月   氏貞、吉田貞辰に遠賀郡内浦郷と地島白浜の代官職を安堵する      
天正4年
1576年
8月   景轍玄蘇、前南禅寺湖心先師大和尚十三回忌を隆尚庵で行う      
天正6年
1578年
4月 氏貞、遠賀進攻 猫城を取る
氏貞、麻生元重と争う
遠賀川をはさんで西を宗像領・東を麻生領とする
6月 大友宗麟、島津方についた松尾城を落す 宗像皇大神遷宮 宗像社辺津宮第一宮本殿の遷座式が行われる。 貞保、宗像皇大神遷宮の座にて、大和秀尚を面縛し、氏貞の逆鱗(げきりん)に触れる。貞保心服せず邸宅に籠居す
11月 大友軍、日向の高城・耳川で島津軍に大敗する
天正7年
1579年
4月 秋月種実ら高橋 紹運(元、吉弘 鎮理)の岩屋城を攻める 秋月種実家臣、宗像氏貞家臣に起請文を送り、毛利氏に通じることを告げ同意を求める。宗像勢秋月軍に味方する
  7月   龍造寺隆信・鎮賢、宗像氏貞と意を通じ起請文を送る      
8月 島津春忠、千八百余騎を率いて肥後に攻め入る 貞保嫡子籾田丸(守次)生まれる
天正8年
1580年
3月     占部貞康、氏貞に赤馬庄の内九町七反を安堵される    
5月 大友方鷹取城主毛利鎮実、猫城を攻撃する 宗像軍これを守る
宗像氏助名義の船朝鮮と通交
  8月   宗像蘇西堂(景轍玄蘇)の船、朝鮮国へ      
天正9年
1581年
3月 宗像氏貞、王丸若宮八幡宮を造営
  5月   宗像氏助名義の船朝鮮と通交      
8月 貞保、父尚持を祀った今宮社を住居の傍らに移す
9月 島津軍、水俣城を落す
  10月   宗像・麻生両氏、秋月種実の持城笠木岳を落城させる      
11月 戸次道雪勢山東宗像表、清水原で宗像勢と戦う(小金原合戦) 宗像勢、鞍手郡吉川庄にて立花勢と戦って敗北する
天正10年
1582年
12月   宗像氏助名義の船朝鮮と通交      
天正11年
1583年
3月   立花道雪・高橋統虎宗像侵攻
吉原源内左衛門典通、吉原にて討死
   
  4月   宗像氏貞、宗像社辺津宮の鐘を新鋳する      
  5月   宗像氏助名義の船朝鮮と通交      
天正12年
1584年
3月 龍造寺隆信、島原にて島津・有馬の軍と戦い戦死 宗像氏助名義の船朝鮮と通交
戸次道雪室(氏貞妹)没
天正13年
1585年
2月 宗像氏貞、宗像宮御庁座次第と僧座着座次第を定める 左座四に自犬王丸権擬大宮司平朝臣守郷(占部弥七)着座
5月 宗像氏助名義の船朝鮮と通交 貞保二男仁多寿丸(末安)誕生
9月 立花道雪、筑後の陣中で没す
  10月 秀吉、島津義久と大友義統に停戦令を出す        
天正14年
1586年
2月 貞保、筑後守となる。越前守を願うが叶わず
3月 秀吉、九州国分構想を提示。大友氏・毛利氏は承伏、島津氏は受け入れず 宗像氏貞没 42歳 貞保、氏貞の死を悼み元の八郎に戻る
4月 大友宗麟、関白豊臣秀吉に謁し、島津征伐を上訴する
7月 島津軍、筑前侵入。岩屋城を落す。高橋紹運敗死す 宗像氏助名義の船朝鮮と通交
11月 毛利の将、吉川元春、小倉城中にて没す
12月 秀吉方の先鋒、毛利軍香春岳城を攻める
四国勢、豊後戸次川にて島津軍と戦って大敗す
天正15年
1587年
3月 占部貞保九郎右衛門と改める
貞保、豊臣秀吉公に長州下関で拝謁
5月 島津義久、秀吉に降伏す
大友宗麟没す
氏貞後室、秀吉公に吉田河内守守道を使者として使わす。 貞保、薩州より帰陣の豊臣公を筑後堺より箱崎までお供す
6月 豊臣秀吉、箱崎にて九州国割をする
筑前一円、筑後の中の4郡が小早川隆景領となる
立花統虎、筑後国の4郡を宛行われ、筑後国へ国替えさる
筑紫広門は、筑後国上妻郡へ
筑前国領主一掃される
7月 豊臣秀吉、箱崎を出立、赤間にいたる
秋月種長、日向国高鍋城を宛行される
黒田孝高、豊前国六郡を宛行われる
筑前・筑後の小早川領の内、夜須郡内二百町、筑後内二百町を宗像領とする命が下る。
秀吉公、岳山入城。城の破却を命ず
貞保、箱崎で秀吉公に拝謁。衣服一重を賜う
貞保、秀吉公より肥前国瓜生野を賜う
天正16年
1588年
2月 小早川隆景、立花城に入城。名嶋城築城
天正18年
1590年
6月 小早川隆景、宗像第一宮拝殿寄進
7月 豊臣秀吉全国統一
文禄元年
1592年
4月 豊臣秀吉朝鮮出兵(文禄の役)
文禄2年
1593年
6月 小早川隆景、宗像第一宮本殿大修理
8月 貞保、家臣岩松興吉・石松清左衛門・常世神右衛門を瓜生野へ遣わし、開墾地のことを沙汰させる。帰路、箱崎宮の放生会にて名嶋の警固藤井三郎右衛門を討ち、三人とも自害す。
文禄3年
1594年
9月 小早川秀俊、筑前下向
文禄4年
1595年
11月 小早川隆景隠退。秀吉隠居料として宗像・鞍手・御牧三郡を与える 小早川秀俊、筑前領検地
慶長2年
1597年
朝鮮再出兵(慶長の役)
小早川隆景、備後三原で死去
貞保、瓜生野を返上す。
(文禄4年に召し上げともいう)
慶長3年
1598年
6月 小早川秀俊(秀秋)越前転封。博多は蔵入り地となる
8月 豊臣秀吉没 貞保子籾田丸元服。久内守次という。
豊福周賀の婿養子となって江口に住む
慶長4年
1599年
2月 小早川秀秋、越前より筑前へ移る
慶長5年
1600年
9月 関が原の戦い
12月 黒田長政、筑前入国
寛永9年
1632年
12月     貞保没す。85歳    
2011年11月修正・追筆を加えた
占部家の出来事については、占部氏家系図の事項に若干訂正を加えて書いてある。又宗像の動向に関しては、「中世筑前国宗像氏と宗像社」「宗像市史資料編第二巻」を主に用いた。北部九州及び中国の動向の項は、一般的・代表的な史実の内、宗像氏・占部氏に関係のあると思われる項目を挙げた。従って、北部九州や中国の史実のごく一部を挙げたのみである。

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