承福寺/宗像市上八(こうじょう)

宗像氏貞が眠るお塔の森に登らず、道をそのまま進むと承福寺が見えてくる。正しくは「安延山 承福寺」という。文明2年(1470年)宗像家の家老だった占部安延が主家及び若くして亡くなった子盛延・弘尚の追悼のために再興した寺である。禅宗済下横岳山崇福寺に属す。

お塔の森を過ぎて道を上がっていくと左手に見えてくる

承福寺門前  四季折々違った姿を見せる、美しい寺である。

春の新緑が目を奪う

承福寺から玄海灘を望む

占部安延

占部安延は文明10年(1478年)6月18日に81歳で没したと記録にある。そこから逆算すれば、(応永4・5年)1397・8年頃に生まれた事になる。孫太郎といい、初名は識安、後に右馬助、越前守を名乗る。晩年は剃髪して宗快といった。

時は室町時代。大内義弘は将軍足利義満と対立し、応永の乱が起こった。大内氏に近かった安延の父弘安は、大内義弘に従って泉州堺で戦死した。20歳という若さであった。安延は生まれてすぐに父を失い父の顔も知らずに育った。

嘉吉元年(1441年)、義満の後を継いで将軍となった足利義教は、守護大名赤松満祐に酒宴の席で暗殺された。将軍義教の腹心となっていた大内持世は、将軍義教とともに酒宴の場にいたために暗殺事件に巻き込まれ、その時の深手が元で没した。持世に従っていた安延の二男弘尚もこの嘉吉の乱で命を落とした。25歳であった。

これより前、永享8年(1436年)には、長男盛延が防州山口で死亡。記録には「害にあった」とだけ書いてあり、詳しくはわからない。まだ22歳であった。盛延には弥六郎(弘安)という子があったが、父が死んだ時、まだ三つ四つの幼子であった。安延はこの幼い孫に幼くして父を失った自分の姿を重ね合わせていた事だろう。弘安は30歳前後に、伯父清安より家禄を譲られた。しかし、文政2年(1467年)35歳の時、大内政弘に従って播州で戦死した為、家督は末伯父の祐安が継ぐこととなる。

60歳を過ぎて安延は剃髪し、宗快と号して隠居したが、それから10年後の文明2年(1470年)、先立った息子や孫、盛延・弘安・弘尚の追福のために承福寺を再建。家督を継いだ末息子祐安の兄月潭和尚をその開山とした。

 

氏貞公御塔の修復に際して制作された小冊子「宗像黄門氏貞公の業績」の中で、承福寺代表の安永氏が次のように書かれている。

先年、承福寺の和尚さまと、十数名の檀徒の方々と共に本山、京都大徳寺へ参拝したときのことです。大徳寺は寺の多い京都の中でも名刹中の名刹で、本山の中にある塔頭寺院が20カ寺もありますが、そのいづれも歴史で名を知る大名の菩提寺で威厳のある寺ばかりでした。

その本山の大きな大万丈の建物のうぐいす張りの廊下の上に大徳寺派の全寺院の名と寺格を示す掛席額がかけられていました。大徳寺本山内の寺、地方別格本山から、一等地、二等地・・・八等地へと寺格別に寺名札がならんでいました。九州の田舎の承福寺だから下の方に札が下がっているだろうと見ていましたが承福寺の名がありません。おかしいぞと、だんだん上の方へ見ていくと、何んと承福寺は一等地の中でも最上位の位置に掛けられていたのです。

不勉強ではありましたが、承福寺が大徳寺派の一等地の寺格をもつ寺であったことをはじめて知ったのです。

後で和尚さまにそのことを聞いたら、昔は承福寺は五山・十刹に次ぐ諸山位という官位を頂く百刹の中に加えられていた時もあり、黒田藩分限帳によれば、三十石の拝領米に預かっていたのだといわれ、「これは宗像大宮司氏貞公当時の権勢を表すものであり、また自ら神仏を尊崇し、寺院に対する庇護、興隆を積極的に行っていたから、本山でもこれを高く評価したのでしょう」ということを聞きました。

第八十代宗像氏貞を最後に宗像家が断絶してから、承福寺は荒廃したが、その後、黒田藩の時代には再び庇護を受けて復興した。(参照筑前宗像争乱へ ) 寺には、宗像氏貞とその父、隆尚が祀られている。

秋の承福寺