氏貞公御塔の修復に際して制作された小冊子「宗像黄門氏貞公の業績」の中で、承福寺代表の安永氏が次のように書かれている。
先年、承福寺の和尚さまと、十数名の檀徒の方々と共に本山、京都大徳寺へ参拝したときのことです。大徳寺は寺の多い京都の中でも名刹中の名刹で、本山の中にある塔頭寺院が20カ寺もありますが、そのいづれも歴史で名を知る大名の菩提寺で威厳のある寺ばかりでした。
その本山の大きな大万丈の建物のうぐいす張りの廊下の上に大徳寺派の全寺院の名と寺格を示す掛席額がかけられていました。大徳寺本山内の寺、地方別格本山から、一等地、二等地・・・八等地へと寺格別に寺名札がならんでいました。九州の田舎の承福寺だから下の方に札が下がっているだろうと見ていましたが承福寺の名がありません。おかしいぞと、だんだん上の方へ見ていくと、何んと承福寺は一等地の中でも最上位の位置に掛けられていたのです。
不勉強ではありましたが、承福寺が大徳寺派の一等地の寺格をもつ寺であったことをはじめて知ったのです。
後で和尚さまにそのことを聞いたら、昔は承福寺は五山・十刹に次ぐ諸山位という官位を頂く百刹の中に加えられていた時もあり、黒田藩分限帳によれば、三十石の拝領米に預かっていたのだといわれ、「これは宗像大宮司氏貞公当時の権勢を表すものであり、また自ら神仏を尊崇し、寺院に対する庇護、興隆を積極的に行っていたから、本山でもこれを高く評価したのでしょう」ということを聞きました。
第八十代宗像氏貞を最後に宗像家が断絶してから、承福寺は荒廃したが、その後、黒田藩の時代には再び庇護を受けて復興した。(参照筑前宗像争乱へ ) 寺には、宗像氏貞とその父、隆尚が祀られている。
|