建興院/宗像市日の里

永禄3年(1560年)、夏の激戦で嫡子を失った占部尚安は、追悼の為に平井村に建興院を再興した。JR鹿児島線東郷駅近くの線路脇にある。昭和に入り、日の里団地の造成によって現在の住所は日の里になった。小字名は日明(ヒアケ)といい、日の里の『日』はこの名に由来するという。

境内は全て建替えられ、昔の面影は無くなった

     
 

「筑前国続風土記」の田熊村の項には建興院について次のように書かれてある。

東光山と号し、曹洞宗の寺で田島村の医王院に属している。昔建高院という廃絶した真言宗の寺を、永禄年間に占部甲斐守尚安が再興して禅宗に改め、その子右馬助尚持の冥福を祈った。更に大宮司家の為に忠死した兵士の追福もした。寺内には不老水が湧き出して清潔である。

寺内の不老水

 

不老水の由縁

第29話 建興院の井戸水
昔、平井と村山田の境に鳴淵という池がありました。その池には恐ろしい龍が住んでいたということです。雨がふりそうになるとごうごうと地鳴りがして、村人は生きた心地もありません。あるとき玉巌という和尚が訪れて、ここに寺を建て毎日一生懸命にお経を唱えました。龍はそのお経が有り難くてたまらず、ある夜女の姿になってあらわれ、 「鳴淵の水をこの寺の山に移し、お礼といたしましょう。」と告げました。それからはどんな干ばつになってもこの寺の井戸水は涸れたことがないそうです。<中略・・・>井戸水は今でも寺の用水として使われ、「脚気」に効くと言われています。また、この辺りを井戸からとって平井と呼ぶようになりました。 『郷土歴史資料叢書第六輯 民話伝説(蘿山房)より抜粋』

「筑前国続風土記」には、建興院より以前、平井村の高野という所に同音別字で建高院という真言宗の寺があったが、永禄年中に麻生鎮氏が許斐白山の城を奪った時の兵火に炎上して絶えたとある。永禄2年(1559年)、立花但馬守鑑戴、奴留湯融泉、麻生鎮氏に豊後勢を加えた大友軍が宗像を襲った時のことであろう。 (参照麻生鎮氏について )その時、宗像勢は大島に退却し、城を奪われた。翌年には城を奪回したものの、大友勢と激戦が続き、その夏の戦いで占部尚持は34歳の若さで命を落としたのだった。父尚安は尚持の追悼の為に同村日明(ヒヤケ・ヒアケ)に建興院を再建したという。建興院は尚持の法名から取ったものだという。