筑前(鞍手郡)若宮荘

宗像家の最後を見届けた占部貞保。貞保は宗像の上八(コウジョウ)に住んだが、その後孫達が今も大宮司宗像氏貞の墓所を守る。本家が今も上八に残っていることで、上八が占部家の本拠地であったと思っていたが、さかのぼれば元は鞍手郡若宮を本拠地としていた。系図には初代占部兼安より4代維安の時代(おそらく13世紀後半)には鞍手郡若宮荘で八百町を領したとの記述がある。

その後七代宗安の時、建武三年(1336年)、九州に下った足利将軍尊氏卿が菊池氏と多々良濱で戦ったが、宗像氏に従い尊氏を助けて参戦。その戦功により、翌年将軍より筑前吉川荘三百町を加恩された。先祖よりの若宮荘八百町と共に千百町を領有したという。宗安の居城は鞍手郡笠木山城であったとされる。

宗像家の所領

宗像社の古来よりの神領は、肥前国晴気(はるき)3百町、豊前国大豆俵(まめたはら)40町、壱岐嶋の薬師丸20町(又は25町)、当国古物神崎(ふるものかうさき)40町、西郷300町、稲元40町(又は50町)、須恵村30町、芹田50町、合わせて820町(又は875町)であった。初代占部常有(兼安)を匿ったという大宮司宗像氏国の時、平安末期の戦乱に乗じて宗像一郡鞍手半郡を押領したという。氏国は神職でありながら武を重んじ、後に宗像に白山城を築くなど武将としての一面も持っていた。氏国が坂東武士の子常有を愛育し、重用したのもうなずける話である。

鎌倉時代になると、筑前の守護・惣地頭に武藤氏(後に少弐氏)が送られ、郡内に領地を持つと共に、手光氏などの小領主と主従関係を結んだ。幕府の御家人となった宗像氏は郡司クラスとして少弐氏の支配下に置かれ、常に周辺からの押領、搾取の危機にさらされていた。やがて元の襲来を機に、北条氏が関東勢を連れて下向してくると、小弐氏・大友氏等を指揮下に置いて勢力を拡大した。北条氏の配下にあった宗像社の荘園でも年貢の取り立てが厳しさを増し、大宮司氏盛は家臣へ土地や米を与えることができないほどであったという。元の脅威が去った後には北条勢への不満が一気に高まる。

ついに鎌倉幕府が倒れ、足利尊氏が蜂起するが、京都で破れると海路で西下し九州に逃れて来た。この時、宗像氏範は尊氏を助け、その功により領地も倍増したというが、南北朝時代に領地を護るのも容易ではなかっただろう。宗像氏は、隣接地域の勢力に対抗するために、室町幕府を頼り、九州探題や将軍家との結びつきを深めたが、九州探題からの横暴に直面した折には将軍家に直訴した。

九州探題に渋川氏が任ぜられたとき、渋川氏だけでは力不足と考えた将軍義満は周防・長門の守護職大内義弘にその補佐を任じ九州の秩序安定をはかった。以降、大内氏が北部九州の覇権を握るようになると、宗像氏は大内氏に従い、武家領はほとんど大内氏の所有となる。大内氏が滅び、大宮司氏貞の時代になり、旧大内領を回復して宗像一郡をほぼ掌握し、遠賀川より西千町、鞍手郡の若宮3百町を領するようになったのである。

占部氏と若宮荘

若宮荘とは若宮八幡社が鎮座する宮若市水原を中心とした旧若宮町に、旧宮田町と鞍手町の一部を含めた地域だった。若宮荘は内陸部の荘園であるが、荘内を流れる犬鳴川を下れば遠賀川に合流し、芦屋津にいたることができる。 宗像郡を中心にした浦・島と海を支配する宗像家にとっては、水上交通が重要な役割を持っていた.。文治年中(1185−90)の文書によれば、倉久・四郎丸・上有木・下有木・芹田・原田・金丸・水原・高野・平・黒丸・金生・福丸・恵比・伊賀利・岩野・所田・古門・竹丸19村を若宮河内といい、これが即ち若宮荘だという。(宮田町誌上より)

冒頭で述べたが、初代占部兼安(常有)より4代維安の時代(おそらく13世紀半ば過)には鞍手郡若宮荘で8百町を領したとの記録がある。文永11年(1274年)の元寇以来、九州の御家人には異国警固番役が宛がわれたが、やがて元の再来の噂が立つと、幕府は鎮西探題を立てて北条氏の一族を送り込み、大友氏・少弐氏を指揮下においた。国難を理由に支配権を増した北条一族と関東下向組。それに大友氏や少弐氏も加わって、複雑な勢力争いが展開されたが、こんな時代にいくら文武に秀でた英傑であったといっても、一宗像家臣の占部維安が8百町を領したというのも不自然な気がする。

話は遡るが、占部氏初代臼井六郎常有が宗像大宮司家を頼って占部の戸籍に入った時、常有は兄の妻子を一族の千葉胤綱に預けた。預けた子は臼井常好といい千葉胤綱の姪を妻に迎えた。文永11年(1274年)の元寇の折、幕府は九州に領地を持つ御家人の九州下向を命じた。この時千葉胤綱の甥(臼井常好の義兄弟)頼胤も千葉氏が肥前国小城郡周辺に所領を持っていた関係で九州に下向し、敵の毒矢を受けて戦死した。

又、臼井常好も孫の代になって第一次の元襲来後、弘安元年(1278)北条宣時の推挙により筑前国嘉麻郡馬見荘、碓井荘 を回復した。これらはほんの一例であるが、中央政権の中に力を持つ千葉一族との関係もまだ希薄になりきらない頃である。元寇を前後して中央から縁者達が九州へと下向してきたことも、占部氏が若宮荘で力を持った一つの要因だったとは考えられないだろうか。度重なる領地の侵害に悩まされていた宗像家が、武に長けた占部氏を南の堅めとして置いただけとは思えないのだ。

七代宗安の時、建武3年(1336年) には多々良濱の合戦の功によって吉川荘3百町を加恩された。系図によれば宗安は笠置山(笠木山)城を居城としている。別系図には宗安の父重安の代に笠木山の城主になったとの記述があるので宗安はここで生まれ育ったと思われる。父重安は嫡男ではなく、はじめ和田茂時を名乗っていたが嫡男が亡くなったのか、後に家督を継いで笠木山の城主になったとされている。 笠置山(笠木山)城は宗像氏の端城で、宗像郡の神領、合屋郷(飯塚市幸袋)の護りの為に築城されたといわれる。この後、笠木山城に住んだという記録は見当たらない。ただ、下って寛正2年(1461年)占部清安が鞍手の下村に住んだという記録、文亀3年(1503年)、占部尚安が鞍手の古賀城に生まれたという記録があること、更に尚安の弟安忠が鞍手の乙野に住まい乙野五郎と名乗ったことなどを考えると、犬鳴川流域のこの一帯に根拠地があったことは間違いないだろう。

大内氏時代の占部氏

南北朝・室町時代の混乱を越えて8百町という領地と笠木山城主の地位をそのまま維持していたということはありえまい。特に北部九州が大内氏の勢力下に置かれるようになってからは、宗像家も固有の領地を大幅に縮小させ大内家の御家人化した。尚安の父豊安が享禄2年(1529年)福津市八並にある許斐山の城を再建したとき、許斐山は大内氏の領地となっていたため、豊安は大内義隆に自らの所領であった吉川荘3百町を代地として捧げることを申し出て許可を得た。吉川荘3百町は足利尊氏から加恩された分が残っていたのだろうか。占部尚安の子、尚持、その子貞保は、それぞれ許斐山の麓にあった吉原の里城と許斐城で誕生している。

九州の覇権争いの中で生き残るために、九州探題や中央政権に頼った宗像氏は自然の流れとして大内氏勢力の中に組み込まれたが、それが果たしてよかったのかどうかわからない。大内氏の力が増すにつれ、拡大する為にも、それを維持する為にも多くの兵力を必要とするようになり、宗像氏だけではない、北部九州の大内氏方の諸将達は西に東にと戦に動員され、外地で命を落とすものも少なくなかった。しかも、中国に人手を取られ手薄になった隙を狙って、少弐氏や大友氏などが巻き返しを図ってくる。

天文11年(1542年)大友氏が鞍手攻めにかかったときも、大内氏が尼子氏との戦いに夢中になっている最中であった。この時若宮26ヶ村の拠点宮永城には宗像家臣吉田掃部守貞昌がおり、周辺の端城を宗像家・大内家の家臣達が守っていたが、少数ではどうにもならない。端城は次々と落とされ、宗像勢は宮永城に籠り中国からの援軍を待ったが間に合わずに陥落した。このとき、若宮の岡田城に占部十郎という城代がいたと記録にあるが、占部豊安の系図にその名はない。豊安の一族は富田城の尼子攻めに遠征していたようである。

大友氏と宗像氏の和睦

宗像氏が特異なのは、神職と在地領主としての二面を持ち合わせていた点である。鞍手郡内においても大宮司家は若宮荘の総社であった若宮八幡社や宗像社の末社の神事を通じ、荘民と深く結びついていた。大友氏が城や領土を奪っても、大宮司家の影響力を払拭することは容易ではなかったと思う。大内氏が滅び、宗像氏が一時期大友氏寄りに傾いたこともあったが、それもつかの間毛利氏が台頭してくると、他の反大友側の諸将とともに反旗を翻した。若宮荘の南方には反大友の秋月氏があって、大友軍が天文11年に落とした城々も宗像氏や秋月氏によって次第に侵食されていた。

下って永禄12年(1569年)、大友氏に握られた北部九州の覇権を奪回すべく毛利軍が海を渡った。大友方の堅城立花城も落ちて、あと一息という処で大友氏に背後を突かれた毛利軍は急きょ撤退を強いられる。残された毛利方の諸将は大友氏に降らざるを得なかった。宗像氏も又、大友氏と和睦したが、その時西郷・若宮は大友方に預けられた。その後宗像氏貞の妹が立花道雪に輿入れする前に道雪の計らいとして西郷と若宮を宗像氏に返上したが、西郷は輿入れの際の化粧料として差し出され、若宮には西郷にいた旧大内家臣達が移された。

小金原合戦

天正9年(1581年)11月、 秋月種実と攻防を繰り返していた毛利(森)鎮実を助けるべく立花道雪の輸送隊は立花城より鷹取城(直方市頓野)へ向かったが、その帰り道、宗像領内を通過する立花勢を、西郷衆が待ち伏せしていた。西郷(福津市)の地を道雪によって追われ、若宮に移された西郷衆は悲惨な暮らしを強いられていた。この西郷衆の復讐を恐れた道雪は、若宮を通過するに当たり、あらかじめ宗像氏貞に断りを入れ、安全を保障させようとした。

しかし、恐れたとおり、帰途に着いた立花勢を西郷衆を中心とした宗像勢が襲った。これは、一部家臣の独断行為で、氏貞の意に反して起こった事件とされている。しかし、島津氏との戦で力を失いつつあった大友氏に対して、筑前諸将は毛利氏と通じ反旗をひるがえしつつあった。一握りの家臣の遺恨というが、笠木山より秋月軍まで駆けつけ、意外にも大戦(いくさ)となったこの戦いが、偶発的に起こったものとはいいきれない。この戦で、道雪は貴重な戦力を多数失った。しかしそれ以上、宗像勢の被害は甚大で、宗像勢の負け戦であった。

<若宮八幡宮>宮若市水原

仁徳天皇を祭ったといわれるが、その起源、由縁は諸説あって定かではない。前述若宮河内19カ村の惣社である。宗像家をはじめ大内家等の保護を受けく、神領も多かったようだ。小金原の戦の時には、西郷党の面々がここに集結したといわれる。 戦乱で疲弊したが、黒田家の援助で再興した。江戸時代初期の人で、浮世絵の祖といわれる岩佐又兵衛勝以が画いた「三十六歌仙絵」が有名である。又、秋の大祭放生会は、江戸時代から福岡市東区の筥崎宮、宗像市田島の宗像大社と並んで、筑前三大放生会と呼ばれている。