その3 許斐城戦記
天文・弘治年中、後奈良院の御代、天下の武将は征夷将軍源義輝公と申された。源の尊氏公より14代であらせられる。その時、諸国は大いに乱れて御下知にも従わず、国々は割拠して境を争い、家を奪い合う。はかりごとを常とし、日々夜々に絶えず軍を出す。元を探るに応仁の大乱以降、諸将は自国に引きこもり、将軍の命に背き、隣との境を侵してはかすめ取り、小家は大家となり大家が小家となった。或いは伝来の領地にこもって敵を防ぎ、遺跡の城郭を出て敵を防ぎ、威勢を振るい勇を振るって日本国中修羅闘争のちまたと化していた。 筑前の国も又、城主多数にして合戦の耐える間もなかった。
≪宗像記 第六筑前国諸将の事より≫

大内義隆の死

占部豊安・尚安親子は黒川隆尚(宗像正氏)とともに大内義隆に忠義を尽くしていた。天文11年(1542年)大内・毛利軍が尼子氏を攻めた時も尚安は遠征して共に戦い敗戦の痛みも共に味わった。天文14年(1545年)、父豊安が75歳でこの世を去り、当主となった尚安は翌年に家領67町を新たに拝領し、その翌年には嫡子尚持に男子が生まれた。40歳を越えて充実の時を送っていたに違いない。孫が生まれた年、主君黒川隆尚が没した。しかし家督はすぐに隆尚の養子となった宗像氏男に引き継がれ、氏男(黒川隆像)は大内義隆の信頼も得ていた。大内義隆の政治離れによって大内家は揺らぎ始めていたものの、それでも一応は安泰に思えた。

ところがその義隆が陶隆房の謀反によって自害。同時に宗像家の当主氏男(黒川隆像)も殉死してしまった。天文20年(1551年)9月1日の事である。間を置かず9月12日には宗像の白山城に山口で生まれた黒川隆尚の実子鍋寿丸が後継として強行に入部した。陶隆房は大友義鎮の弟晴英を大内氏の後継として立てたが、入部の前日9月11日、鍋寿丸は新当主大内義長(大友晴英)から許されて宗像姓に復している。入部に際してその正当性を印象付けるためであろう。この素早い一連の動きは、謀反以前から周到に計画されていたに違いない。鍋寿丸に反対する勢力は次々に掃討されていく。 山田騒動へ

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陶隆房が大内氏の跡取りとして迎えた義長という人物、元は大友晴英といい豊後大友氏の前当主大友義鑑の子であった。母は大内義興の娘であり義隆の姉である。又現当主大友義鎮の弟であるが腹違いと言われた。大内義興亡き後義隆の養子となって後を継ぐはずであったが、義隆に実子が生まれて話が壊れた。天文21年(1552年)9月、大内義隆自害後すぐに山口に入り大内氏を継いだのだった。陶隆房は大友義鎮と組んで九州内の反対勢力を押さえ込む計画だった。この時混乱の宗像家にとって唯一幸いだったのは、大友氏が前年のお家騒動からまだ立ち直っていなかったことである。豊後では前年天文19年(1550年)大友義鑑の後継者をめぐって「二階崩れの変」が起こり、義鑑は亡くなり嫡子義鎮が後を継いだばかりであった。

大友晴英(大内義長)が大内氏を継いだことで、見かけ上は以前の通り大内氏に従うことに違いないが、その中味は大友・陶両氏への服従である。そうと知っても家臣に選択の余地はない。大友氏に反発し、大内氏に組していた者達は行き場を失いかけていた。親大内反大友の先鋒であった占部尚安一家にとって、宗像家が大友氏側に傾くことは失脚を意味した。後の天文24年(1555年)に「多賀隆忠の許斐岳城を夜襲をかけて落した」との記録があるが、父豊安が再建した許斐城はこの期間に取り離れていたものと思われる。

天文22年(1553年)4月宗像勢は鍋寿丸とともに大内義長の軍に属して高祖城(現在の福岡県前原市高祖)の原田隆種を攻めた。隆種の父興種の興の字は大内義興から受けたもので、隆種の隆の字は大内義隆から受けたものである。原田氏は大内氏が九州に進出して以来、応仁の乱の時にも共に上洛し、九州にあっては常に大内氏方として少弐氏や大友氏と戦ってきた。しかし陶晴賢(隆房)に決して服さなかった為に陶・大友軍の攻略にかかったのである。この軍友を攻めなければならない宗像勢の心中を察するに忍びない。宗像勢とて成り行き次第では原田氏と運命を共にしていたかもしれないのである。

尚安の決断

天文24年(1555年)7月占部尚安の嫡子尚持は多賀美作守隆忠の許斐岳城に夜襲をかけた。多賀隆忠は元々大内氏の家臣であり、筑前内大内領の検断職として派遣され大宰府に住んでいた。大内氏が滅亡してからは大友氏に降ったとあるが、許斐岳城に移ったいきさつはさだかではない。尚安が大友方の城となっていた許斐岳城を奪い返したことは、たとえ当主鍋寿丸が大友氏や陶氏の縁戚であったとしても、断固反陶晴賢(隆房)、反大友義鎮を貫くとの並々ならぬ決意をうかがわせる。

9月に尚安は古賀城から許斐岳に移ったとあるが、その翌月には毛利元就が厳島で陶晴賢を討つこととなる。許斐岳を奪回したのも、毛利氏のそうした動きをあらかじめ知ってのことかもしれない。現に毛利元就が挙兵するとすぐさま尚安・尚持親子は芸州に向かい、毛利元就に自分の意思を伝え、厳島の戦線に参加している。一方鍋寿丸は陶方に応援として人を送った記述が残っているという。

鍋寿丸が送った手勢が毛利氏に寝返ったのか、それとも占部尚安親子の単独行動だったのか、鍋寿丸自身知っての策か否かはよくわからない。しかし、鍋寿丸は当時まだ10歳位にしかなっておらず、鍋寿丸の意思とは関係なく事が運ばれていたのではないかと推察される。翌年1月に尚安は宗像氏貞(鍋寿丸)より采地を賜ったとあるが、実際はまだ鍋寿丸は元服しておらず、恩賞として采地を受けたのが事実であったとしても、恩賞の決定権は誰にあったのだろうか。

弘治三年(1557年)

(一)大内義長の死

厳島で陶晴賢(隆房)を討った毛利元就は次に大内義長を追った。弘治3年(1557年)4月大内義長は長府にて自刃。この時、兄大友義鎮は弟に援軍を差し向けなかった。毛利氏の諜略で不安定になった情勢下で出張する余裕がなかったか、毛利元就との間でお互いの領分を侵さないという密約があったともいわれている。

(二)筑前蜂起

大内義長(大友晴英)の死後、反大友ののろしが北部九州各所に上がる。弘治3年(1557年)7月毛利氏と通じた古処山城(福岡県朝倉市=旧甘木市)の秋月文種を大友軍が攻めた。日田方面から進入した大友軍は筑後勢と合流して秋月氏の支城を次々と落して本城に迫り、古処山城は数日の内に落城した。城主文種は自害したが遺児達は落ち延び、やがては大友氏の脅威となる。宗像系図によればこの時鍋寿丸は大友軍に味方して秋月氏を攻めている。しかしこの時すでに陶晴賢(隆房)=大内義長(大友晴英)=大友義鎮の協力体制は晴賢と義長の死によって崩れており、大友義鎮への求心力も消えかけていた。

筑前の古処山城(福岡県甘木市)の秋月文種に続き五ヶ山城の筑紫惟門(福岡県三笠郡)、高祖城の原田隆種(福岡県怡土郡)ら毛利内通組が次々と蜂起する。大友義鎮はこれらの鎮圧に追われた。

(三)多賀隆忠合戦

大友軍が秋月文種の本城を攻めた翌日の7月8日、多賀美作守隆忠が許斐城の占部尚安を攻めた。2年前に占部尚持に許斐城を夜襲され奪われたのを、この機に奪い返そうとしたと言われるが、毛利氏に通じた占部尚安一家を掃討したいという大友方の意向を受けての攻めと思われる。 宗像記へ

前日の秋月攻めに尚安親子は参戦せず許斐城に籠っていたのだろうか。大友義鎮は鍋寿丸の側近、寺内秀郷に書状を送り秋月攻めに加わるよう要請している。厳島での合戦の折にもそうであったが、尚安達は主流と離れて毛利氏と歩調を合わせていたと思われる。

(四)宗像家中

単純に見れば、尚安など毛利につこうとする反大友方と鍋寿丸に山口から付き添ってきた寺内秀郷等大友方とが反目し合っていたようである。しかし、鍋寿丸周囲の重臣達は大友義鎮に従順な態度を見せながらも、実は大いなる迷いの中にいたのだった。

この時期の鍋寿丸方側近達の行動は実に不可思議で一貫しない。去る天文24年(1555年)に尚安が一大決心をして大友方であった多賀美作守隆忠の許斐岳城に夜襲をかけたことがあったが、この戦功に対してずっと後に重臣達から感状が送られた。この夜襲のすぐ後毛利元就が厳島で陶晴賢を討った。宗像家はこの時陶晴賢に援軍を送っていたといわれるが、感状は陶晴賢が滅んだのを見定めた後に送られている。

下って弘治3年(1557年)7月、大友方の多賀美作守隆忠が許斐城を奪回しようと攻め寄せた時、防戦した尚安の子尚持に感状が発給されている。しかし、一方で前日には大友氏の要請を受けて秋月文種攻めに兵を出しているのだ。

占部尚安は厳島から帰った後に鍋寿丸から采地を賜った。しかも尚安は翌日許斐三河守氏任、寺内備後守尚秀、国分若狭守直頼、仲村筑後守尚道、寺内治部允(丞)秀郷をわざわざ招いて受けた三十余町を見せている。自分がもらった采地をわざわざ披露するのも不思議だが、寺内氏や国分氏は、宗像正氏(黒川隆尚)が山口にいた時に家臣となった人々で鍋寿丸の側近達である。感状の発給者は氏貞になっているが、まだ氏貞は幼く、これには氏貞(鍋寿丸)の母が関与していたと思われる。

鍋寿丸の母(照葉の方?)

鍋寿丸の母は陶隆房(晴賢)の姪と言われているが、宗像系図によれば71・73・75代大宮司であった宗像興氏と陶興房の娘との間に生まれた子である。これが本当ならば、氏貞の母は宗像譜代の家臣にとってぐっと身近な存在となる。興氏は大内義興の一字を賜り、山口に在勤した。興氏の山口在勤中に生まれたとすれば、次代の宗像正氏が山口に出向して、その側室となるまで、そのまま山口で育ったのだろうか。

研究論文「戦国期における宗像氏の家督相続と妻女」の中で桑田氏は吉田佐渡入道宗榮、同内蔵丞など、反対勢力の誅殺を命じたのは鍋寿丸の母であるとしている。又、陶隆房はこの母の後ろ盾であり、必要に応じて隆房が母親に指示を出し、又、母親も隆房の指示を仰ぎながら隆尚時代の家臣と共に領内の支配にあたっていたといわれる。後にも、毛利方として立花城攻めに出陣した氏貞を助け、非常時には籠城の指揮をとるなど気丈ぶりを見せている。

宗像に来て後、鍋寿丸の母(照葉の方)が心から信じられるのは寺内氏や国分氏など山口から伴ってきた一握りの家臣しかいなかった。宗像家譜代の家臣達はたとえ表面的には従っていても、皆本心はどこにあるのかわからない。特に後ろ盾であった陶隆房(晴賢)が毛利氏によって滅ぼされた後には、下手をすれば自分や鍋寿丸にも危険が及ぶ恐れがあった。又、陶晴賢の錦の御旗であり、大友義鎮の弟であった大内義長(大友晴英)も亡くなってしまえば、大友方にこだわる必要性もない。今や母として成すべきは何としても我が子を守り抜くことであった。

そんな照葉の方にとって、占部尚安という存在は単なる反対勢力というわけでもなかった。尚安の父豊安は照葉の方の父宗像興氏と叔父宗像氏佐が戦った時、興氏を助けた人物であり、この一家の大内氏に対する忠誠は格別であった。尚安が毛利氏と通じているとわかっていても、陶氏も大内氏も滅んだ今、果たして大友氏を一途に頼って生き残れるだろうか。

一方、占部尚安や旧臣達にとっても、照葉の方が陶氏の出であるといって、それが対立の理由にはならなかった。照葉の父興氏の母も陶氏の出である。宗像氏と大内氏、更に陶氏との関係は代を重ねるごとに深まっていた。興氏の次代正氏にいたっては大内家の縁戚として迎えらた。正氏は「(大内)義隆を宗家と仰ぎ君臣の道理を果たすように。又陶氏を仰いで親族の誉れを思い、忠義と貞節を尽くすように」との言葉を遺している。大内氏、陶氏、宗像氏の三家はあっさりと敵味方に分かれてどうこうできるような単純な関係ではなかったのである。

許斐三河守氏任

尚安が厳島合戦の後、賜った采地を披露したが、その招待客の中に許斐三河守氏任がいた。氏任は許斐氏の嫡流で、許斐氏は宗像氏の庶流である。当時宗像執権衆の中で最も威勢があったと宗像記にある。この氏任が、弘治3年(1557年)10月一族の者を集めて、鍋寿丸(元服して氏貞/当時13歳)の暗殺を謀ろうとした。宗像記へ

結局一同の同意を得られず、孤立した氏任は200余人を駆り集め、許斐岳を襲撃し占部尚安一族と戦となる。これに蔦山在番、他御家人達が馳せ参じ、氏任は討たれた。又、宗像記追考にも、氏任の一家の内、左馬太夫氏備、同安芸守氏鏡等は執権随一の者で、もしもその時彼らが心を合わせていたら、氏貞の滅亡は疑いのない時期であったと書いている。この事件の後、宗像勢は立花城を攻略しようと出かけた。氏任の謀反は立花からの諜略に違いないという推測に基づいての行動である。宗像記追考によれば、一説に氏任の謀反は誅殺された宗像氏続の残党のしわざという。

尚、論文「『宗像記追考』が語る宗像戦国史の虚実」の中で河窪奈津子氏は、この事件を永禄3年(1560年)の事としている。同年氏貞より発給された感状その他の文書から、その年まで許斐氏任が生存していたことがわかるからである。

毛利氏の九州進出

弘治3年(1557年)中、大友義鎮は、筑前の古処山城(福岡県甘木市)の秋月文種・肥前五ケ山城の筑紫惟門等、毛利内通組を次々と攻め、毛利氏の台頭でにわかに湧き上がった反大友の動きは静まったかに見えた。ところが、永禄元年(1558年)、毛利元就は小早川隆景の軍勢を送り大友の将奴留湯主水の門司城を攻めた。

北部九州の諸将達の抵抗の陰には毛利元就の諜略があることを大友義鎮は知っていたはずである。しかし、義鎮は、毛利元就が義鎮を北部九州の覇者として認め、北部九州に直接手を出さないことを期待していた。不可侵の密約があったといわれるが、その為に毛利氏が弟大内義長(大友晴英)を追い詰めた時にも救いの手を差し伸べなかった。義鎮はある程度、毛利元就を信じていたと思われる。攻めて来る事を想定していなかった大友方はこの時敗走を余儀なくされた。

もともと門司城は大内氏が筑前豊前の大内領の押さえとして城代を置いていた。しかし、天文20年大内義隆が亡くなると、大友晴英が防州に入って大内義長を名乗り家督を継いだ。門司の城は自然大友方のお抱えの城となり、大友義鎮は奴留湯主人を城代に置いたのである。しかし、陶晴賢に続き、大内義長も追討した毛利元就は今や大内義隆の無念を晴らし、逆賊を成敗したかの風をもって義鎮の前に立ち塞がる。大友義鎮としては、門司を足がかりに本格的に九州に乗り込もうとする元就をなんとしてもここで防ぎ止めなければならない。この後も門司城をめぐっては激しい攻防が続くことになる。

永禄2年(1559年)、又しても筑紫惟門が反旗を翻し、大友義鎮の勢力下にあった博多を襲撃した。 再燃する反大友勢力。しかし、大友義鎮はこれを制圧しついに豊前・筑前・肥前3国を平定。6月には筑前国守護の地位を手にした。この年11月大友義鎮は幕府から九州探題に任命されるが、この間宗像氏貞の追い落としにかかる。大友義鎮にとっては、この若輩でどちらにつくともわからない氏貞がすでに邪魔になっていた。

宗像防衛

永禄2年(1559年)己未9月25日、立花但馬守鑑戴、奴留湯融泉、宗像(麻生とも)鎮氏に豊後勢を加えた大友軍が宗像を襲う。その翌日大友義鎮は別手に門司城を攻めさせている。 西と東から攻めることで、一気に制圧しようとしたのだろう。この時宗像の兵は毛利氏を加勢する為に出張中で領内は手薄だった。ここは引くが上策と、宗像氏貞を始め、許斐岳を守っていた占部尚安も城を棄てて大島に渡った。又大友軍は更に兵を進め、水巻の山鹿城にまで進攻。城主麻生家助も城を開けて逃れた。宗像記へ

一方手薄な中に急襲を受け、一旦退いた宗像勢であったが、永禄3年に占部尚持が許斐城に夜襲を仕掛けて奪回すると、これを皮切りに氏貞も大島より帰還した。せっかく手にした北部九州の覇権が足元から崩れていくのを防ぎたかった大友義鎮は、宗像の完全制圧を目指して大軍を送る。宗像記へ

河津伝記

宗像と隣接する西郷地域は元は宗像領であったが、大内氏の時代に切り離されて、大内幕下の河津氏の管理下に置かれた。大内義隆自害の後、九州諸将の多くが大友氏に下り、旧大内家領はほとんど大友氏のものとなったが、河津家当主隆業は、大友氏に下ることをを潔しとしなかったため、領知は没収されて縮小した。隆業は嫡子河津次郎に僅かに残った所領を継がせて自らは出家した。

河津伝記は、永禄2年の立花勢を中心とした大友氏方の襲来について、宗像家の反氏貞派が関わっていたとする。氏貞の相続を快く思わない家臣達は陶晴隆の権勢に押されて何もできずにいたが、晴賢の死に乗じて、好機到来とばかり大友家に訴え、「我こそ大宮司嫡家の筋目」などと言い立てて社務を奪おうとした。立花在陣の鎮氏はこれを聞きつけて密かに彼らに内通して数千人を集め、永禄2年乙未年9月25日不意に蔦ヶ岳城を襲撃したというのである。

立花勢と共に襲来した鎮氏という人物は、宗像姓とも麻生姓とも言われているが、宗像氏の系図には鎮氏の名は発見できない。恐らく鎮氏という名は大友氏側に付いた時、大友義鎮か、大友家の重臣達から鎮の一字を受けて新しくつけた名前であると思われる。鎮氏は後に許斐山で討たれるが、山道脇にある墓を今も里人が祀っている。今はその墓の正体を詳しく知る者もない様子だが、代々大切にされてきたことを見ると鎮氏が宗像一族だった可能性は高い。(墓には麻生重氏とある。)この時期氏貞はまだ少年で、当主の座を狙う輩もまだあきらめがつかなかったようである。

さて永禄2年、大島に退避した宗像氏貞について、当時まだ若く、老臣たちの諫言に従っていたと河津伝記には記述されている。その記述のすぐ後に占部尚安の話が登場するので、56歳であったが尚安も氏貞の老臣の一人ということか。氏貞の追い落としをたくらむ連中が大友氏と組んだことで、自然氏貞やその家族は占部尚安達毛利方の家臣を頼らざるを得なくなったと察する。当時の氏貞の年齢は宗像記追考によれば、15歳である。ある日尚安は「ただ毛利氏の後見を当てにして無駄に時を過ごさず、亀山城に残る河津隆家に通じて、密謀をめぐらすべきだ」と氏貞に進言したという。河津隆家は尚安の娘婿であり、反大友氏の姿勢を貫いていた。

氏貞をはじめ皆これを了承したので、尚安は漁夫の姿に身をやつし、夜に紛れ福間の浦に渡りついて隆家の館に入った。懇切なる頼みに、隆家は速やかに同意し、氏貞への忠勤の約束を取り付けた尚安は大島に帰った。河津隆家は宗像家人を招き、反氏貞派の説得と懐柔に尽力した。これまで氏貞に背いた面々も陶の家も滅した今、恨むべきこともないと一同団結し、密かに軍事を談じ、氏貞の渡海を待ったという。

永禄3年庚申3月27日大宮司氏貞は西郷庄に押し渡って隆家の館に入り、一千余人を集め、河津氏の一族に先鋒させ、奪回に乗り出した。河津伝記は河津隆家とその一族が宗像氏貞を助け宗像の領知と城の奪回に大きく貢献したことを強調する。系図の記述であるから全てが真実というわけにもいかないだろうが、両家がお互いを必要としていたことだけは事実である。

度々軍を差し向けながら大友義鎮は結局宗像を落すことが出来なかった。そんな中永禄3年の終わりに尼子晴久が死んだ。毛利氏は石見銀山の利権をめぐって尼子氏と度々争奪戦を繰り返したが、晴久にはどうしても勝つことが出来ないでいた。その晴久が死んだことで毛利の視線が九州から雲州へと引き寄せられる。その隙をねらい永禄4年に大友軍は豊前の毛利方勢力の駆逐に出る。

大宰府官道に接し、また秋月街道と交差して、筑前から筑後、肥後へ抜ける重要な要所であった香春を押さえるべく香春岳城を攻めた。毛利方の城主原田義種が討ち死にし、勢いに乗った大友軍は門司奪回を目指す。しかし激戦の末大友義鎮はついに撤退を余儀なくされた。今や尼子との争奪戦で忙しい毛利氏だったが、中国から筑前・筑後へ抜ける要所として香春岳城をそのままにはしておけなかった。大友義鎮はここでも毛利に破れ、その後仏門に帰依し、宗麟を名乗ることになる。

大友・毛利の和睦

永禄5年将軍足利義輝公は大友へは久我晴通、毛利へは聖護院道増(ショウゴインミチマス)を送り、講和を斡旋した。幕府は尼子・毛利・大友の三者の和睦を願ったが毛利は尼子との講和を嫌って大友との和睦のみ受け入れた。将軍曰く「間田の松山城は元来大友の城であるからこれを大友に返し、門司の城は大内代々の城であるから、今は毛利につけるとする。一旦納得しても、又気が変わってはせっかくの上意も無になる事であるから、大友の息女を毛利幸鶴丸に嫁がせ、以後心変わりせぬように」

ところが問題は香春岳城であった、大友氏はこれをどうしても廃城にしたかった。しかし筑前諸将麻生、宗像、秋月や高橋などはこれを通すならば一戦交えるも仕方なしとばかりに猛反対する。香春岳城がなくなれば豊前より大友軍がやすやすと筑前に乗り込めることとなる。又毛利氏にとっても香春岳城がなくなることは門司の城が直接危険にさらされることであり、大友氏の魂胆は見え見えであった。

しかし毛利元就にとって尼子撃退の機会がようやく訪れた時であり、長年切望しながら手のとどかなかった石見銀山の利権の方が重要であった。又永禄6年には嫡男義元が急死。雲州と九州との往復の激務にももはや耐えかねた。

もめにもめて延長を重ねたが、終に永禄7年7月に和睦に至る。このとき元就は宗像氏貞に慇懃な書状をおくり和睦に対しての理解を求めたが、それとは別に許斐左京亮、吉田重致、占部賢安、占部尚安、吉田秀時等重臣達に書状を送ってよこした。これら許斐、吉田、占部等は宗像家旧来の重臣達であり、弘治から永禄の初めにかけての動乱中に、山口から来た重臣達に取って代わり復権を果たした。しかし、 和睦によって毛利から見放された形となった筑前諸将は心ならずも再び大友支配下におかれることとなる。宗像記によれば、農民や商人達は平和の訪れを喜んだが、大友方・毛利方両方共に打ち解ける心もなくて、各々城郭に引きこもり「呉越のへだて(中国の呉と越とが長く敵対していたところから仲の悪い意)」をなしていたから、結局は再び乱世になるのも遠くないとささやかれたという。
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