そのほかの人々は刀鍛治稲光太郎左衛門・金剛兵衛盛高合わせて三百余り。追々馳せ着いて氏任を中に取り込み一人も漏らさず討ち取る。氏任の首は吉原源内左衛門尉が討ち取った。人々が言うには
「今度の合戦は氏任一人の心にてはありうべからず。立花が内通と覚えたり。いざや立花を攻めん」
と、宗像勢は立花に押し寄せた。このことが立花に聞こえ、立花勢は青柳の郷へ討ち出て防戦するが揉みに揉みあって敗れ引き退く。宗像勢は続いて立花の麓に攻め寄せ、十余日まで攻めたので、城も終にこらえきれなく見えた。立花も保ち難く思えたので、高橋に注進した。高橋はあわてて大勢を率いて後詰めをしたので、宗像の人々はこの人数で高橋の新手に当たってはたちうちできないと思い、十一月三日に囲みをといて引き退く。高橋の後援がなければ落城したものをと残念に思いながらも引き取ったという。 >次へ
許斐氏任の謀反:123│4│5